抑うつ気分の亢進とかみ合わせの違和感

 「その他の症状」でも説明しましたが,あるときの歯科治療をきっかけにして,その後かむ位置が不安定になり,どんなに歯を削る「咬合調整」を受けてもその不安定感,違和感が消えないというつらい状況におちいる患者さんがおいでです.一般的には40歳代以降で,性格的には神経質な女性に多いのですが,それ以外の年代や男性にはないというものでもありません.「これまで何軒もの歯科医で咬合調整を受けたが違和感は消えなかった」.「人工的なかみ合わせを作るマウスピースを使うよう指示され,何年もの間使用し続けているのに良くならない」.「良くならないのでさらには特殊な形で費用も高額なマウスピースも使ったが効果なかった」.あるいは「「良い咬みあわせにする」という歯科医の言葉に従って,高額な私費料金を支払った上で,上下の歯を全て人工のかぶせものにしたのに違和感が消えない」といった方もしばしばおられます.どうしてこのような症状が起こるのかについては,顎関節症が完全に消えていないとか,TCHが関係して顎の位置が不安定なままであることが大きな原因になっているということを「その他の症状」でも説明しました.ただそれだけではなく,時折そのかみ合わせ違和感の一部には大脳の変化が関係している場合もあることが分かってきました.実はこの大脳の変化は以前から疑われており,治療としてうつ病の治療に用いる抗うつ薬を服用すると「違和感が楽になった」という方がいることが知られていました.私がまだ口腔外科にいた頃,顎関節症の症状はないのに「かみ合わせの違和感」を訴える患者さんがよく来院されました.こういった方たちはこれまで多くの歯科医院を受診して咬合調整を受けても良くなっていません.こういった場合に抗うつ薬を投与すると「かみ合わせが気にならなくなった」という改善例が出てくることを経験したのです.こういった経験を経てその後顎関節治療部という顎関節症の専門診療施設に移籍してから,このような「かみ合わせ違和感」について,来院された患者さん方のご協力をいただいたうえで各種調査を行いました.その結果を色々と検討したところ,この「違和感」発生と持続に対して,ある仮説を持つようになりました.さらにその仮説に従って治療方法を組み立てたところ,これまでの歯科的な治療では改善しなかったかみ合わせ違和感が消えるようになったのです.

 その説明に入る前に,通常の歯科治療を受けたときに,よく生じる感覚についてお話ししたいと思います.多くの方が経験していると思いますが,歯に詰め物やかぶせものをしたとき「ちょっと高い」,「かみにくい」といった感じがしたことがあると思います.しかし数日経過するうちには「気にならなくなる」ことも経験したはずです.これはどういうことかというと,大脳の中のかみ合わせ感覚を受け取る神経細胞には,一定幅の許容範囲があり,元のかみ合わせの高さより多少高かったり低かったりしても,その許容範囲内であるなら順応できるので,数日で「気にならなくなる」のだと考えられます.ところがその許容範囲の幅は大脳の状態によって狭くなったり,広がったりするのだろうと考えられるのです.たまたまその幅が狭くなっているときに歯科治療を受けると,わずかな高さの違いでも許容範囲から外れてしまうために,違和感が始まります.この変化は,われわれの調査で分かっているものとして「抑うつの亢進」という状況があります.この「抑うつの亢進」とは,前にも説明したように「心の風邪」と呼ばれるような軽いものなのです.誰でも一生のうちに何回かは経験するといった症状で,場合によると時間経過でまた消えるような軽いうつ病です.歯科治療に通院している患者さんが,治療予約の入っている日に,たまたまこのような状態になっている可能性があります.たまたま許容範囲が狭くなっている時に治療を受けてしまうことから,違和感がはじまるというわけです.ですから歯科で特殊な治療を受けたとか,間違った治療を受けたことが原因であるということではないのです.しかもこれまで私が担当した患者さんは皆TCHをお持ちでした.TCHをお持ちであるがために始終かむ位置を探そうとする無意識な行動が起きます.そうなると上下の歯はいつも触れあい,すれあうことになります.すると歯を取りまく歯根膜が圧迫され,内部の血流が悪くなります.血流の悪化は歯根膜での感覚の過敏化を起こします.実際にその感覚は大脳の神経細胞で感じているのですが,この過敏化が続くとその神経細胞そのものが過敏化します(この状態を感作といいます).神経が過敏化していますから,ほんのわずかなかみ合わせの変化でもまた「おかしい」と感じることになり,この「かみ合わせ違和感」が悪循環となってぐるぐる回ることになるのです.もう一つの経路があります.それが「顎関節症と共に出るその他の症状」で説明した顎関節症たTCHの存在による筋疲労から起こるアゴの位置の不安定です.

 このような現象が大脳で起こっていると仮定するなら,治療の方法もそれに合ったものにすべきです.「かみ合わせをよくする」治療の効果が無かったことも説明できます.すなわちTCHがある患者さんですから,かみ合わせがよくなっても歯が接触する時間が短くなることはないでしょう.接触時間が短くならなければ大脳神経の感作状態は改善しませんし,TCHによって筋肉も働き続けますので筋疲労も取れず,顎の位置も不安定なままとなるのです.ですからかみ合わせを変化させる治療では違和感改善にはならないのです.そうではなく緊急に必要な歯科治療以外は,新たにかみ合わせを変化させる治療を避け,TCHを是正することで歯の接触時間を減らし,大脳に行く神経信号を減らす必要があるのです.かみ合わせ感覚の信号が減ることで,過敏化していた神経細胞が感作状態から鎮静化されるようにすべきなのです.ただ何年もこの感作状態が続いていると,信号量減少だけでは鎮静化しない場合もあります.その場合には前に説明した抗うつ薬を使った薬物療法を併用すると鎮静化が可能になります.こういった治療方法を行うようになってからは全ての患者さん方からかみ合わせ違和感が消えるようになりました.それまでのかみ合わせを変化させる治療では治らず,20年も治療を続けていた60歳代の女性も1年たらずでかみ合わせ違和感が消えた例もあります.ある男性(Aさん)がご自分の違和感やそれに付随する症状からの回復に関する経験を載せたホームページを作成しており,紹介してもよろしいとのご承諾を得ましたのでご紹介します.